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1 年振りの再開~電話編~

久しぶりの投稿である。

今日、おもむろに知らない番号から電話がかかってきた。もちろん相手の名前は知らない。だが、過去に何回も会っていた人間だった。お互い電話番号だけのビジネスの関係である。彼は、追われる生活の身で、しばらく隠れていたとのことだったが、ソレも既に知っている。なぜなら捜査の手がコチラ側にも及んだことがあったからなのだ。もうこのビジネスからは手を引いて現在に至るのだが、いざ連絡が取れる状態になってしまうと、人間というモノは疼くわけで、過去の思い出が鮮明に蘇るのである。

過去、長年にわたり、ボクは異常なビジネスをしていた。1 日の消費は数万円。常人では考えられないことになっていた。しかしもう、ソレも過去の話。ボクは身を引いたのだ。だが、ココロは揺れる。揺れてしまうのだ。いっときの快楽のため。そのいっときの快楽があまりにも魅力的すぎるのである。

タイミングというのは恐ろしいモノで、先日部屋を掃除していたら道具が発見された。その時もココロが揺れた。このタイミングでビジネスパーソンから連絡が来るというのは、何かの暗示であろうか。もはやボクには判らない。

自己裁判と自己処刑による受難

精神的苦痛と肉体的苦痛が合わさった状態の暗闇の中で、苦悶から開放される方法を模索している。

沈痛から悲痛に変わり憎悪を凝らして笑いに変わる、そのような瞬間が訪れるコトははたして実現可能なのであろうか。堕落が苦痛からの逃避とは別の問題で、悲しみが弾けて溶解していくと脳細胞が乖離し液体となって流れだす。そうして堕落という奈落の底へ堕ちてゆく。

積み重なった音の壁の中に冷たいひとしずくを垂らし、置いてきたい。それが溶け出して広がっていけば世界が変わり、開放へと向かうのだと思う。

ひとしずくをいつか

混沌とした精神とたゆたう気怠さの中、あの人のオーケストラを聴きに行ったこのあいだ。真剣で喜ばしく、きらきらした目をしていたアナタに惹かれた。と同時に焦った。どうして?だってボクは何もまだ成し遂げてないじゃないか。

前頭葉のない左脳縮小型の右脳肥大化人間は日々、アルコールと睡眠薬という最小限の安全なドラッグのもと、音に近づこうとしています。自分の中に神を信じて。くじけそうにはならないが焦る。コレは元来そうであるべきなのではないか。

灰野敬二のライブ。正直中座もした、途中で帰った。だが、ギターノイズの素晴らしさに瞬きを忘れた。すべての音が聞こえてしまったのだ。なすすべなく立ち尽くしていた。できれば歌わないで欲しかった。だがさすがノイズの神。すばらしかった。

スティーブ・ライヒに再度ハマる。クラシックを聴きまくる。

ボクの内面の神と話すにはそれなりの道具が必要だ。前頭葉の穴を海馬で補う今となっては、埋めてくれる何かを詰め込むしかないのだ。そしてその穴がなかったかのように見せかける他人の顔が必要である。劣等感を埋めてもらうのとは少し違う。

そうやって黒胡椒の固まりはまだ弾けることも割れることもせず、もんもんと殻に閉じこもっているのである。

変拍子におけるカタルシス

無意識の世界に蓄積された、精神的暗黒の深淵に巣食っている “がん細胞” が多くの場合消失運動を内部的要因からなるエネルギーによってなされることがないのと同様に、古の時代から外部的要因による昇華の方法が取られていたと考えるべきではなかろうか。

私が昨日、覗きでもしたら飲み込まれそうな深い黒味をたたえた嘆きの液体を(それはまさしく脳髄が溶解した液体であるのだが)肺の中に湛えたまま、それを深淵と呼ぶのかどうか迷いながら目黒 Blues Alley Japan に向かったときに起こったことは、まさに外部的要因によるある一定の領域のみ適用される通利療法であると言えよう。

その世界においてはドラムが刻むリズムは 35 拍子。ベースが捉えるリズムは 7 連符の 11 個取り(1.57 拍)ピアノに於いては拍子が分からないような状態である。理論的な部分からのアプローチではあるのかもしれないが、その複雑なリズムが合わさったときに生まれるものは感情の断片が少なからず含まれており、なにかある一定の嘘を昇華させていったような気持ちになるのである。消化不良のカタルシスという表現がまさに私にとってぴったり来るのではあるまいか。

松井秋彦 mujik CPJ

私が音楽理論や JAZZ ベースを習っている師、猪口勇哉氏も参加している mujik CPJ の音楽。

その世界の住人になれるほどの咀嚼はまだできない身である。しかし、そこに存在するエネルギーは外部的要因として、黒く変色した脳髄の澱を荒々しく引き上げてすくい取り、難解であるという意味での悲劇から何かを解き放つような開放を与えてくれた、そのように感じたのである。

今日のボクの夜から大切なアナタへ

塗りつぶすところがすべてなくなったボクの人生において、ボクがそこに残された少しばかりの白いキャンバスのかけらに何か色を添えるとしたらその色は黒以外ににないのです。

よかったのにね、いろんなコトが見えてないときも、粋に振る舞えと言うことがバカみたいにつまらない言葉として使い古される前の、現在を生きていない誰かたちは。どうせそこには後付けの文化しか存在しなくて、いつも後のインテリぶったバカがその言葉を拝借するんだよ。割腹自殺の美学とか、粋の語源とか。

くだらない。

あきらめたとき以外に白い絵の具はそこに塗らないから、ボクはまだココで悲しいながら生きながらえている。赤い色は未だ見えないし、三途の川の濁り具合は何度も見た。濁っていてそこなんて見えないんだけど、近いんだよ、そこは。アンチファッキンクライスト!だからこそボクはまだコチラの世界でも何かしたいとまだ思っている。ソコはソーシャルがどうとか業務とはみたいなカスみたいなコトしかいわない命の根源を縮小していく輩が居ないところであって、ボクの観ているところと違うヒトと合わせていくつもりもない。

神よ、なぜ私を見捨てたのですか。もう一度言う。アンチファッキンクライスト、キミに父など、特に天などには居なかったんだよ。神は死んだ。というか神なんて居なかったに等しい。それでもボクは神に最後のひとしずく与えてもらいたい。決してかなわぬ死者への冒涜であっても。

江戸時代風の顔を持たない船頭たちが、そのとき食堂を離れてボクを連れて行ってくれなかったので、ボクを向こう岸に連れていってくれなかったのでまだボクはココにいる。死に損なっている。限界に達したとき、ロシア人の祖父はあの濁って深い河の向こう岸にもう一度立って迎えに来てくれるのでしょうか。

ボクはアナタを愛しています。どんなに障壁があろうとも。だからボクはアナタを追いかけていくし、待っているのだから。

少しばかりのスパイスを今夜

この間家に来た宿敵ポリスメンがボクを悩ませるように、きっとボクもその小さなココロに強烈なノックをしたんだと思います。

高飛車な態度をするヒトはたいていキライです。というボクが高飛車で嫌われているのかもしれないんですけれどもね。目には目を歯には歯を、入れ歯にはポリデント、血で血を洗う抗争がボクの周りのあらゆるところで勃発している気がします。

意味もなく自分の力を誇示してスベったり、後でぶっ殺せば良かったなんて吠えるような感じとでも言うんでしょうか、そんなコトは誰も訊いてないし、求めてもいないんです。かっこつけた言い訳も、何かを悟っているかのようなくだらない語りも、スマートさを定義しようとする哀しい出来事も直感的じゃなさ過ぎて無意味なんじゃないですか?

左の眼球が上下左右に激しく動いて、奥歯をカタカタ鳴らしながら、ポッカリ穴の空いたもう修復できない前頭葉を海馬が刺激する様を感じながら、ボクは少しの優しいエッセンスを求めているのです、毎晩のように。

求めているモノは簡単には得られない、そんなコトはわかっているので、あの時何回もあきらめて、先に降りようとした人生をまだ続けていくのです。最大のギャンブル。

そこに価値観と計画性を加えて走って行けたら、きっと何かが起こるのでしょう。廃墟のようなココロと腐食した金属のようなカラダを引きずって、そこにたどり着くんだ。

ここではない、遥か彼方へ

残りの人生を束ねた状態で、燃え尽き症候群に陥ったか弱き作業員たちを引き連れて、思った以上に液化した夕方の曇り空に融け込んでいった、あの孤独な研究員が最後に残して言ったものといえば、たった一本の折れた 2B の鉛筆であったように思います。

追い求めているものが自分の手からこぼれていくさまをただ静観するような状況に直面したとき、人間というものはその場にとどまることができず、眼球のはげしい上下運動によって引き起こされる壮絶なめまいと、まるで悪魔の手によって握りつぶされたような激しい胃の痛みによって遠のく意識の中、現実世界との摩擦に耐え切れず、自分という境界を超えて意識が流れだしてしまうのでした。

あの孤独な研究員もそんな経験をしたようで、彼の場合特に眼球の上下運動による衝撃が前頭葉にまで達してしまったようなのです。その結果、通常の人間がいくら流れこみたいと思っても決して融け合うことのできない空に対して向かっていくことができたのではないかと思います。もっとも、その時の空といえば、絶妙なタイミングで渦の中心から液化が広がっていたわけなのですが。

ここではないどこかへ、遥か彼方へ。

退廃した惑星における産業廃棄物の還元方法

ストレートに加速する理論を細胞に取り込み、肥大化していった左脳集団に圧迫された右脳を持った一団が気化していったとき、膝を抱えてうずくまる実に醜い半気化状態のホームレスに多くの人々が布をかけて産業廃棄物として処理していった、という悪夢を見ていたため、度重なる歯ぎしりによって削れていったノコギリのような歯を鏡で見る羽目になったのです。

鏡越しに見えるその実に一回りごとに小さくなっていく歯は、まるでうわ顎の骨から突然変異的に突出してしまった無様な突起物と化し、食物を噛み砕くことさえ困難になっているように思えます。そんな歯を誰が認めるというのでしょうか。

そんな意味を持たなくなった小さな歯を見ると、ルーツを辿る作業がなんの意味も持たなくなっている現実は、夢の中の右脳産業廃棄物を排出した世の中がそのまま投影されたような感じで、ひたすら考えることをやめた集団が目的も持たず、ただ見えもしない前に進もうとしている気すらしてくるのです。

しかし、前向きに考えると、ノコギリ型の小さな歯と、その歯が歯ぎしりによって起こす小刻みな振動を受け取る右脳だけが、そのかけられた布を取り払い、目的のあるその先へと導いてくれるのではないでしょうか。

そんなことを考える夜には、太古の昔よりもたらされ、還元されたリズムパターンがわれ先にと次の時代への要求を突きつけていくような気がします。

華麗なる大脳皮質フラッシュバック

さかのぼる記憶の憤りを止めなければならない制御システムが、この度こぼれ落ちたリースリング地方の白い涙ひとシズクにより崩壊したという報せを受けました。

ボクはただひたすら依存しているその場所に帰りたくてしかたがないだけなのです。あの薄い層に覆われていたはずの核がすべてを失ったときから、その欲望は 2 ブロック先の曲がり角にある木造のアパートまで届いていたのではないかと思います。

細くて折れやすい針の先から噴きだした、小さくて古い都市にもう一度戻りたい。

今夜すべてのヒトへ、逆流に飲まれた魚の謝罪

今日、仕事を終えて運動して地元の駅からとあるバーを目指して歩いていました。今夜ボクはすべてをリセットするのです。脳髄を垂れ流しながら生きている誰かが書き連ねたヒトコトも、知らないところで独断的に宣言されているであろう、型どりされたどうしようもない何かも、捨てた者を愛おしむくだらない神の作り話も、すべてなかったコトにするために。

そんな時、自転車に乗っていたあの人を見かけました。ある意味とても元気そうだったので、ボクは声をかけませんでした。ソレがきっとこのご時世、一番イイコトだと思ったからです。本当になんとなく元気で良かったと感じています、今夜。そう、できる限りボクではない誰かには可能性のある限り、平安な時を手段を選ばない逆賊のように「勝ち得て」欲しいと願いますが、その本質に到達すると言うことにおいては、まったくといってイイほどボクには関係のないコトなのです。

こういう距離がすべてを遠ざけていくんだと思いますが、それもまた、いたし方のないコトなんだろうなと、遠い原始時代の狭間から未だ時の扉を開けられずにいます。そんなボクをいったい誰が許してくれるというのでしょうか。

さて、ボクは今日、この場所から去ることになりました。ソレがどこか遠いところなのかと言われると、まさに生と死がいつの時代も隣り合わせであるように、限りなく近いところへ、されどココではないどこか遠くへ、まるで使い古した左足を引きずりながら、涙を流すことを知らない腐ったミカンが顆粒状になってカプセルの中に閉じ込められるかのように影を落としながら去っていきます。

優しい言葉やココロのこもった祈りの中に、冷たく無機質ですべてを静観している一部分が存在するように、存在などというモノは、しょせん軽んじられた積み重ねでしかないのであって、ソレを巻き戻していくなどという愚かな行為はすべきではないのだと、そう思わざるを得ないのです。